青天を衝け「青春はつづく」41話 最終回

自分の中にある信念を強く持ち、時には寄り道するも軌道修正しながらも信念を貫き通して生きた

際で渋沢栄一。

人間味あふれるキャラクターが、人を引き寄せ、強い想いを伝え生涯行動することで、世を動かしてきたといっても過言ではないであろう。

政治家に何故ならなかった…官僚のまま何故進まなかった等という声もあったことだと思うが、民間で活躍してくれたからこそ、官と民が協力し合って今の世ができていたのだろう。

その貢献をしたのが渋沢栄一に他ならないと改めて感じた最終回であった。

今の我々は、渋沢栄一の想う日本になっているのだろうか…?

 

【あらすじ】

老年になっても走り続ける栄一(吉沢 亮)は、ワシントンの軍縮会議に合わせて再び渡米し、移民問題など悪化した日米関係の改善に尽力する。

一方、栄一の後を継ぐ決心をした孫の敬三(笠松 将)は、銀行員となり、経験を積むため渡英する。

そんな折、関東大震災が発生。周囲の心配をはねのけ救援の最前線に立った栄一は、内外の実業家に寄付を呼びかけ資金を集める。

また中国の水害に対しても、自宅からラジオを通じて募金への協力を呼びかけるが、満州事変が勃発。

救援物資は受け取りを拒否されてしまう。それでも栄一はあきらめず、病床から自らの思いを伝え続ける。

 

【徳川家康の語り】

いやぁ、今日で終わりとは寂しい限りだ。もっとこの目で見てみたい。

しかし260年続いた徳川の世然り何事にも終わりはある。

渋沢栄一の物語を閉じるにあたって是非皆さんに感じていただきたいことがある。

真心を込めて切り拓いた彼らの路の先を歩いているのはあなた方だということを。

是非に…

 

【ドラマを観て思うこと】

栄一は、喜寿(77歳)を機に実業界から完全に引退するが、その気力は全く衰えず、都市開発や教育事業、社会事業と、毎日平均15時間、熱心に働き続けた。

また、長年手がけてきた慶喜公の伝記本も完成した。

前回アメリカで講演をしたが、それでも日米関係を改善は見られず、再びワシントンで開かれる国際会議にあわせて渡米する。

「行く気はなかった。役に立つとも思えん。しかし、胸がムベムベして眠れない」。(栄一)

「いまだ君に頼るしかなかとは、情けなかことであるんである。しかし、そいでも頼む。
決して、アメリカと戦争の道に進んではならんのである。」(大隈重信)

床に臥せていた大隈重信も日本の行く末を案じていた。

しかし、残念なことに栄一が解決を願う排日移民問題が議題に取り上げられることはなく、会議が終わってしまうのだった。

排日移民問題についての重要性を説く栄一。幣原喜重郎にその想いを伝えるのだった。

「なぜこの会議で移民問題が大事か。それは国と国の関係が、結局は人と人の関わりだからだ。外交問題だけではない。人間の根っこの心の尊厳の問題なんだ。」(栄一)

論語=道徳の精神がいかに大事なのかをここで伝えていた。

 

一方、日本では、関東大震災が起き、兜町の事務所などが全焼。

家族を心配した篤二が飛鳥山邸を訪れ、お互いの無事を知り、安堵する。

栄一は、書生や家族たちに指示を出し、避難者の救済に努めるのだった。

「焼け出された暴民が、過激な社会主義者に扇動され、裕福な家を襲うという噂があります。

しばらくは血洗島に戻っていたほうが…」(正雄)

「なにをバカなことを!私のような老人は、こんなときにわずかなりとも働いてこそ生きる申し訳が立つんだ。

それを田舎に逃げよとは、なんと卑怯千万な!」(栄一)

 

『そういう人だ。あれこそ渋沢栄一だ。』

家を出されてもなお篤二の父への尊敬の心がひしひしと伝わってきた。親子の絆を感じる場面だった。

 

父の偉業は年を取ってもまだまだ続く…

大水害にあった中華民国を支援するため、『中華民国水災同情会』が設立され、満91歳にして、会長に就任。

募金活動の機運を盛り上げるため、ラジオで呼びかけるのだった。

「この募金活動をさらに、一般国民に周知徹底させるために、渋沢さんにラジオを通じて、呼びかけていただきたいのです。」(児玉謙次)

「こんな老人が、まだ役に立つと言ってくれているんだ。励まぬわけにはいかぬだろう。」(栄一)

「さて、中華民国の水災を救うために、みなさんのお力をお借りしたいのであります。
思い出してください。かの関東の震災のとき、中華民国の人々は我が国を救おうとたちどころに多くの義援金を送ってくれた。当時、反日運動のさなかだったにもかかわらずです。」(栄一)

血洗島での父や母の言葉を思い出す栄一。

幼少の頃、母からいわれたことをいくつになっても心に刻み、進んできたのだと思わせる感動の瞬間だった。

「大丈夫だい。私が言いたいことはちっとも難しいことではありません。手を取り合いましょう。困っている人がいれば助け合いましょう。人は人を思いやる心を。誰かが苦しめば胸が痛み、誰かが救われれば温かくなる心を当たりまえに持っている。助け合うんだ。仲よくすんべぇ。

みんながうれしいのが一番なんだで。」(栄一)

 

募金は驚くほど集まった。しかし、満州事変が起こり…。同情会の救援物資は、厳重な抗議の意思表示のため、中国側には受け取ってもらえなかった。

このときの日本人の気持ちが中国に届いていたことを信じたい。

 

昭和6年11月11日。家族に見守られながら、91歳で息をひきとる。

穏やかなお顔だった。

亡き祖父の遺言を皆に伝える敬三。

「祖父には、この程度で満足とか、ここまでやれば十分だなどと力を惜しむことが、少しもなかったように思います。常にもっと国をよくしたいと、もっと人を守りたいと、そればかりを考えて生きていたように思います。

偉人という響きはどうも祖父には似合いません。みなさんには祖父の失敗したこと、かなわなかったことも全て含んで、『おつかれさん』と『よく励んだ』とそんなふうに渋沢栄一を思い出していただきたい。」

 

[渋沢栄一より皆様への伝言]

長い間お世話になりました。私は100歳までも生きて働きたいと思っておりましたが、今度という今度はもう立ち上がれそうにもありません。これは病気が悪いのであって、私が悪いのではありません。死んだあとも、私はみなさまの事業や健康をお守りするつもりでおりますので、どうか今後とも他人行儀にはしてくださらないよう、お願い申します。 渋沢栄一

 

今もなお、日本の行く末を見守る栄一。

「おう!今の日本はどうなってる?」(栄一)

「それが…恥ずかしくてとても言えません。」(敬三)

「ははははは!!なあに言ってんだい!まだまだ励むへぇ。」(栄一)

 

 

「今の日本を、どう思いますか?」との問いに栄一はどう答えるだろうか…

栄一が危惧していたことが、改善されている部分もあれば、違う方向に進んでいることもあるだろう。今の日本を見て、「こんなんじゃダメだ!」って、また走り出すのだろうか?

これからの日本をつくるのは、私たちの手にかかっている!!

 

 

【ゆかりの地の紹介】

91年の激動の生涯に幕を下ろした栄一。

斎場から墓地までの沿道は、栄一を慕う4万もの人々で埋め尽くされた。

今は東京都台東区の谷中霊園で、愛する家族と共に静かに眠っている。

栄一について、敬三は息子の雅英(まさひで)さんにこう語っていた。

雅英氏(渋沢栄一の孫、敬三の息子):

「(敬三は栄一のことを)『あの人は真剣勝負をした人だ』とよく言っていました。

すべての仕事を命懸けでやっていたという意味なんだと思うんですよね。

『とても俺はかなわない』というふうな意識を。

栄一に対しては、敬三はものすごく尊敬と愛情を持っていたんでしょうね。

逆境に対しては歯牙にもかけないという感じでね。

どんどん前進する、スケールの大きな守備範囲の広い、信じられないような活動家でしたよね」

栄一が夢見た日本の未来は、今を生きる私たちに託されたのだ。

渋沢栄一の墓(谷中霊園)

 

アクセス

谷中霊園

JR「日暮里駅」より徒歩5分