青天を衝け「栄一と戦争」39話

ドラマも終盤になり、江戸、明治、大正、昭和と4つの時代を駆け抜け91歳まで生きた渋沢栄一。

その途中では数々の偉人の死や、世界に目を向けると日清戦争、日露戦争など、世界の覇権争いを見ることになっていった。

若き日に商売(=経済)で日本をよくするという志をもち進めていくが、世界に向けて、戦争から武器や経済が生まれるというようなこともドラマの中で言っていた栄一。

本心ではなく、政府に言わされた感が否めない絵面ではあったが、栄一が唱えていた合本とはかけ離れた世へと進んでいた。

ここで慶喜の登場があったのがせめてもの救い。

草薙剛扮する徳川慶喜は、戦争=戦とは対極的な行動をとったのだが、その穏やかな半生がのちに栄一の手で伝記がまとめられたのだった。

 

【あらすじ】

栄一(吉沢 亮)は、ホワイトハウスでルーズベルト大統領と会談。

日本の軍事面のみが注目され、経済への評価がまだまだ低いことを痛感する。

やがて、日露戦争が勃発。

財界の代表として戦争への協力を求められた栄一は、公債購入を呼びかける演説をするが、その直後に倒れてしまう。

栄一の見舞いに訪れた慶喜(草彅 剛)は、“生きてくれたら、自分のことは何でも話す”と、涙ながらに語りかける。

栄一たちは、慶喜の功績を後世に伝えようと、伝記の編纂(へんさん)を始める。

 

【徳川家康の語り】

さて新世紀だ。

私の子孫である慶喜が、ケイキさんと呼ばれる静岡を離れ30年ぶりに東京へ戻ってきた。

ケイキといえば歴史上、こんな絵をみた人もいるかもしれない。

中国のケーキという、フランスの新聞にものった風刺画です。

清国に勝利したことで、世界の中の日本の立場は大きく変わろうとしていました。

外国に飲み込まれぬよう、がむしゃらに励んできた栄一たちはそこから一歩前進し

欧州列国と渡りあっていくことになったのです。

 

【ドラマを観て思うこと】

栄一は、喜作と惇忠を巣鴨の慶喜邸に連れていき、喜作は30年ぶりに、惇忠は初めて、慶喜と対面することになった。

平九郎を亡くした惇忠、最期まで徳川のために戦った喜作。それぞれ複雑な想いもあっただろう。

「長く生きて国に尽くされ、言葉もない。
残され生き続けることがどれほど苦であったことか……私はねぎらう立場にないが、尊いことと感服している。」(慶喜)

惇忠は慶喜の穏やかなたたずまいとお声かけによって今までの想いが救われたように思ったのだろう。

もう少し惇忠の活躍も描いてほしかったが、20世紀の訪れとともに、この世を去りました。

 

力を強めるロシア。このままでは対馬海峡までがロシアの勢力下となり、日本の国防は崩れてしまう。

ロシアから日本を守るため、井上馨や陸軍参謀次長・児玉源太郎に「財界も主戦論を掲げてほしい」と頼まれた栄一。

金も兵もない日本がとロシアと戦うためには、財界のさらなる緊密な協力必要だった。

栄一は、講演会で、戦費にあてる公債の購入を呼びかけた。

「経済人は戦争を嫌うというが、私は今、戦争は経済上に大いなる利益を与えるものだと断案します。
仁義の戦であったならば、戦後必ずその国は繁盛するということだ。

今日、日本がロシアと戦うのは仁義の戦である。ゆえに諸君、大いに奮発し公債の募集に応じていただきたい!」(栄一)

戦費にあてるという腑に落ちていなかった行為がストレスになったのかもしれない、その直後、病に倒れてしまった。

病状が悪化し、医師から命があぶないと宣告を受ける。

佐々木勇之助と篤二を呼び、銀行の頭取の後任を佐々木に、篤二には家のことを頼むと伝えることになり、篤二もまたその重圧に押しつぶされそうになっていた。

そんなとき、慶喜が見舞いに来て、かねてから慶喜のことを世に伝えたいという栄一の想いを「生きてくれたらなんでも話す」と栄一に約束する。

「生きてくれ。生きてくれたら、なんでも話そう。
なんでも話す。そなたと、もっと話がしたいのだ。だから、死なないでくれ。」(慶喜)

慶喜の言葉もあってか、その後体調が回復。慶喜の伝記の編纂(へんさん)のため、歴史学者や昔を知る人らを集めた。

「慶応3年の終わりだ。大坂城内では、家来の爆発を制止できぬ状況になった…ほとんど半狂乱というありさまであった。

皆は、出兵を許さぬなら私を刺してでも薩摩を討つと言いだした。

光をさけ余生を送ってきた。

人には生まれついての役割がある。
隠遁(いんとん)は、私の最後の役割だったのかもしれない。」(慶喜)

 

そして病からいろいろなことが栄一の脳裏を横切った。

そして篤二に、実業界を引退する決意を伝えた。

「日本を守ろうといろんなことをやってきた。ようやく外国にも認められるようになってきた。しかし……私が目指していたものはこれか?

今の日本は心のないはりぼてだ。そうしてしまったのは私たちだ。私が止めねば。篤二、私は……近く、実業界を引退する。」(栄一)

数々の実業の中で、最終的に自分が目指してきたものを自問自答し、今後は福祉や教育に力をいれる栄一だった。

どんな人でも、時には我に返り自問自答を繰り返し、自分の進む方向性を常に軌道修正しながら生きていくことは大事なのことだと考えさせられる。

 

【ゆかりの地の紹介】

渋沢喜作は生糸などを扱う「渋沢商店」を立ち上げたほか、さまざまな事業に取り組んだ。

北海道清水町にも喜作が栄一と共に力を注いだ事業があった。

喜作は十勝開墾合資会社の初代社長を務め、十勝の農畜産業の発展に貢献した。

農場の一画に創建された大勝(たいしょう)神社は、今も地域の人々を見守っている。

大勝神社

 

東京都港区。財界を引退した喜作は白金に移り住んだ。

現在、料亭が立つ場所に喜作が暮らした屋敷があったと伝わっている。

渋沢喜作邸跡

 

当時の姿を色濃く残す庭園には、喜作が植えた梅の木が今も枝を伸ばし、毎年色鮮やかな花を咲かせている。

波乱に満ちた日々を送ってきた喜作は、ここ白金の地で穏やかな余生を過ごしたのだった。

 

アクセス

大勝神社 JR「十勝清水」駅下車徒歩2時間

渋沢喜作邸跡 東京メトロ「白金台」駅下車すぐ