青天を衝け「栄一と千代」36話

渋沢栄一が唱える「合本」。

渋沢栄一自らが理想として掲げていた経済システムを、資本主義ではなく「合本(がっぽん)主義」と呼んでいた。

合本主義という名前も、その仕組みも彼が考案したものだ。

「合本主義」の合本とは、「本(もと)を合わせる」という意味だ。

「本」は資本を指し、具体的には、カネ、モノ、ヒト、知恵などが含まれる。

合本主義のほかにも、渋沢は「合本組織」「合本法」というように、いろいろな場面でこの「合本」という考え方を使っていた。

 

「公益を追求するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め、事業を推進させるという考え方」

これが合本。

 

今話は、栄一と千代が中心の話であったが、家族も合本といえるのではないだろうか。。。と思わせる内容だった。

一人では何もできない。

夫婦という形、家族という形も伴に生きることで、新たな試練をも乗り込めることができる。

栄一にとって、千代は唯一支えとなる大事な人であったのだろう。

 

【あらすじ】

栄一(吉沢 亮)は三菱の独占に対抗するために東京風帆船(とうきょうふうはんせん)会社を設立するが、岩崎弥太郎(中村芝翫)の新聞を使った巧みな攻撃に、開業前に敗北してしまう。

また、養育院も東京府から事業縮小を迫られ、なかなか前に進めない栄一。

その裏で弥太郎は着々と事業拡大を進める。

そのころ、長女・うた(小野莉奈)と穂積陳重(ほづみ・のぶしげ/田村健太郎)の縁談が持ち上がり、意気投合した二人は結婚する。

しかし、渋沢家が幸せな空気に包まれる中、千代(橋本 愛)が突然病に倒れてしまう。

 

【ドラマを観て思うこと】

日本が諸外国に肩を並べ、一等国になるには

『強い人物が上に立ち、その意見で人々を動かしてこそ、正しい商いができる。』と岩崎弥太郎。

『多くの民から金を集めて大きな流れを作り、得た利でまた多くの民に返し、多くを潤す。』と合本の思想を唱える渋沢栄一。

目指すところは一緒でも、その考え方は違っていた。

栄一は岩崎弥太郎に対抗するため、合本による新たな海運会社 “東京風帆船会社”を設立するが、開業もしないうちに暗礁に乗り上げてしまう。

その上、大隈重信まで敵に回せば、もうこの会社は終わりだ。

 

明治十四年の政変。

岩崎弥太郎の三菱と大隈が台頭させては、官が力をいれてきた三井の方にも芳しくない。新たに長州、薩摩の力をみせつけなければ。

1881年(明治14年)に自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議員内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とその門下生を政府から追放すた政治事件。

伊藤博文により政府を追われた大隈重信が政府に対抗する新たな政党を作ろうとしているため、その資金源である岩崎弥太郎に対抗できる新しい海運会社を設立し、三菱の専横を打ち破るよう、井上馨たちから頼まれた。

 

そんな中、長女のうた(改め歌子)が学者の穂積陳重とお見合いをし、結婚することとなり、飛鳥山邸で家族皆で暮らすのだった。

「どうか二人には、楽しいことも苦しいことも乗り越え、いい夫婦になってもらいてぇ。」と喜作。

栄一は、そんな若い夫婦を見ながら千代に悩みを相談するが、千代が心の支えとなる言葉を発してくれ、また若き頃の自分を思い出す。

「若いころは、己が正しいと思う道を突き進んできたが、今の俺は正しいと思うことをしたいがために、正しいかどうかもわからねぇほうに向かう、汚い大人になっちまった。若い二人が羨ましい。」(栄一)

「でも私は、お前様のここが、誰よりも純粋で温かいことも知っております。覚えていますか?幼いころに見た夢のこと。」(千代)

 

~俺は異人相手に堂々と商いをして、とっさまに『ようやった』と褒めてもらった。~(栄一) (第4回での回想)

 

「いろんなものを背負うようになってからも、心の根っこはあのころとちっとも変わってねぇ。お父さまやお母さまも『よくやった』と褒めてくださいますよ。」(千代)

「お千代もか?」 「へぇ 千代もです。」

「そうか、なら俺も、いつまでもムベムベしてねぇで励まねばならねぇの。」(栄一)

 

千代に励まされながら栄一は前進することを誓うのだった。

 

そんな夫婦にも危機が。。。

千代がコレラに感染してしまった。

当時流行り病だったコレラ。西南戦争の戦地でコレラが発生し、帰還兵により感染が拡大。外国船からもコレラが持ち込まれ、明治10年代は何度も流行したそうだ。

千代も療養していたが急激に悪化し、子どもたちと面会できないまま息をひきとった。

「死ぬな。お前がいなくては俺は生きていけねぇ。もう何もいらねぇ。欲も全部捨てる。

お前さえいればいいんだ。だから……お千代……。」(栄一)

「生きて……。必ず……あなたの道を……。」(千代)

「行くな……お千代、置いていかねぇでくれ!」(栄一)

 

名医による懸命な治療も及ばす息を引き取った。

伝染病で面会は禁止、子供たちは看取ることもできず、すぐに火葬され、悲しい別れとなってしまった。

棺の中の最後の千代の顔は、神々しいほど美しかったといわれている。

 

【ゆかりの地の紹介】

東京都板橋区。

東京都健康長寿医療センターは、栄一が初代院長を務めた養育院の流れをくむ医療施設だ。

東京都健康長寿医療センター

 

院内には、栄一の時代から院長室に飾られていた額など、ゆかりの品が展示されている。

栄一の妻・千代は、子どもたちを連れ、たびたび養育院を訪れていた。

歌子が、母との思い出をつづった書には、千代が養育院に深い関心を抱いていたことが記されている。

明治15年にコレラで亡くなった千代。

今は、東京都台東区の谷中霊園に眠っている。

渋沢千代の墓(谷中霊園)

 

寛永寺の敷地内に立つ渋沢家霊堂は、千代の17回忌にあわせて建築されたものであると伝わっている。

 

寛永寺 渋沢家霊堂

 

慈悲深く家族を支え続けた千代。

栄一にとって、かけがえのない存在だった。

 

アクセス

東京都健康長寿医療センター  東武鉄道「大山」駅下車 徒歩4分

渋沢千代の墓(谷中霊園)   JR「日暮里」駅下車 徒歩10分