青天を衝け「栄一、最後の変身」31話

自分が置かれた環境に慣れてしまうと、その枠の中の自分しか見えないことがある。

多忙であればあるほど、一度立ち止まって我を振り返ることも必要なのだと改めて思う。

井の中の蛙とまでは言わないが、ふと気が付くと自分が志したことから違った方向へ進んでいるということもあったりする。

ただ、これに気づくか気づかないかで人生は大きく変わってくる。

渋沢栄一が進める新たな日本を作る、とは?

栄一のいとこ、渋沢喜作(成一郎を改め喜作に名を戻す)もまた栄一とともに新たな人生を歩みだした。

 

【あらすじ】

栄一(吉沢 亮)たちは、日本で初めてとなる銀行づくりに乗り出した。

さっそく、豪商の小野組、三井組に協力を依頼するも難航。民間の合同によって銀行をつくりたい栄一と、独自に銀行をつくりたい三井は対立し、三野村利左衛門(イッセー尾形)と熾烈(しれつ)な駆け引きを繰り広げる。

そのころ、富岡製糸場の操業を始めたい惇忠(田辺誠一)は、工女が集まらないことに悩んでいた。西洋式への誤解から、「生き血を取られる」とうわさが立っていたのだ。

誤解を解かねばならない。惇忠は、娘のゆう(畑 芽育)に伝習工女になってほしいと頼み込む。

 

【ドラマを観て思うこと】

前回のおくにを自分の部屋に呼び入れた映像は何だったのか?!と思いきや、そういうことだったのか。。。と少し複雑な気持ちになった。

だが、史実としては本当の事なのだろう。

女性好きと言われ、多くの家族がいるというようなことも言われていた栄一だから、ドラマのなかでも描かずには次の流れはつくれないということだったのだろうと自分を納得させた。

栄一は、大阪で世話をしてくれていた大内くにのおなかに、自分の子がいることを千代に告げた。

「そうですか…お前さまのお子が…それなら、おくにさん。おくにさんもおなかのお子も、ここでともに暮らせばよいではありませんか。お前さまのお子です。ともに育てましょう。」と千代。

なんと心の広い人なのか。もはや、日本国の為に働く夫を支えるということがメインに立っているので、個人の感情などは、自分の中で整理されつくしたようだった。悲しげではあるが、それ以上のともに日本の為にという気持ちが読み取れた瞬間だった。

 

そして、五稜郭で徳川のために最後まで戦った渋沢成一郎。生き残ってと囚われの身となって、2年半ぶりに栄一の計らいで釈放された。

成一郎と再会。

「俺はおめぇがいなくなった分も命をかけて奉公したんだい。それを、薩長の政府などに勤め、わざわざ獄に迎えを出すとは、なんの嫌味だい。

お前に俺の気持ちが分かってたまるか!俺はおめぇとは違う!たくさんの死を見た。平九郎のことも…。いっそ、死ねばよかったんだ。しかし、日がたてばたつほど未練が…。」

栄一が新政府にいることに納得がいかずにつっかかる成一郎。

 

「よかった。死なねぇでよかった。生きてれば、こうして文句も言い合える。」

栄一は、生きて前に進むことが弔いだと伝え、成一郎もともに歩んでいこうと大蔵省に迎え入れた。

成一郎は武士の名を返上し、“喜作”に名を戻し新たな一歩を踏み出すのだった。

 

大蔵省では、郵便事業の後に、新しい事業、バンク=銀行をつくることになった。

銀行とは、外国ではバンク=「金行」という意味であったが、日本では当時銀貨がお金の主流だったこともあり、「銀行」となったわけだった。

 

栄一は、小野組と三井組を集め、両者合同の“民”による会社「国立銀行」の設立を提案。

さらに、両替店として新しくできた建物・三井組ハウスを「合同銀行にしたい」と三井組の番頭・三野村利左衛門に強引に頼んだ。

仲の悪い両者を取り纏め、統一した制度をつくりたかった栄一。

「あくまで“民”による会社にしたい。よって早急に小野組、三井組の両者合同で銀行設立の支度にかかってほしい。商人の力をもっと大きくするために銀行を作る。政府ではなく、商人が作るんだい。その仕組みが“合本”です。」

 

合本主義を進めていく。

そして、三井が立派な三井ハウスを建設すると「合同銀行はぜひあのハウスでいきたい。」と願い出る。

「いやややや。三井はすでに両替店の移転を始めておりまする。あのハウスはこれからの三井の顔。小野組との合同銀行は別に普請させていただきたい。しかし、渋沢様もやはりお上のお役人さまでございますな。所詮、私たちとは立っている場所が違う。私ら商人が手を組んで力をつけるどころか、これから先も地面にはいつくばったまま。あなたがたお上の顔色をうかがうのみ。徳川の世となにも変わりませんな。」

政府の役人としての力で、三野村にせまった英一だったが、三野村の言葉にずっしりときた。

自分がやっていることはこれで良いのだろうか・・・?と。

 

そんな中、突然渋沢家を西郷隆盛が訪れ、酒を酌み交わす。

「近ごろ思うとじゃ。左内殿や平岡殿と慶喜公を将軍にと働いちょったあんころが一番よかったっち。おいが動けば、こん国はもっとよか国になっち、信じちょった。」と西郷。

「私も偉くなりたかったわけではありません。静岡を離れ、政府に入ったのは、新しい日本をつくりたかったからだ。なのに、高いところから物を言うだけの己が、どうも心地が悪い。おかしろくねぇ。」(栄一)

「おはんは、おいとはちごう。まだいろんな道がひらいちょう、後悔せんようにな。」

 

そして栄一は、その夜、千代に大蔵省を辞めて、民間に行く決意を話す。

「俺は、大蔵省を辞める。やはり俺の道は“官”ではない。ひとりの“民”なんだ。」

今度こそ最後の変身だ。

民として切り開いていく栄一の商人としての始まりだ。

そこには、深谷で商人だったころの想いや民が国を支えるんだという心意気が湧きあがる瞬間だった。

 

惇忠もまた、新たな一歩を踏み出し、富岡製糸場の運営に、自分の娘に工女として働いてもらいたいと伝え、今までおなごは男性のやっていることを支えているだけであったが、新たにおなごが自分たちの力を発揮できるような手本となる場所としても作り上げていった。

女性にも学問を教え、当時は最先端の職場だったのだろう。

全て前に動き出したのだった。

 

【ゆかりの地の紹介】

群馬県富岡市。明治5年、養蚕が盛んだったこの地に富岡製糸場が設立さた。開業当時の姿をほぼ完全な形で残している建物は、木の骨組みとレンガで造る西洋の建築方法が用いられてる。

建築資材のほとんどが国内で調達され、レンガは、現在の埼玉県深谷市から集められた瓦職人たちによって作られた。

東置繭所(ひがしおきまゆじょ)

 

当時、最大の輸出額を誇った生糸の品質向上と、器械製糸の技術者を育てることを目的とした富岡製糸場。この地で学んだ工女たちは指導者として出身地に戻り、全国に器械製糸の技術を広めていくことになっていった。

繰糸所(そうしじょ)

繰糸所・内部

 

昭和62年まで操業を続けた富岡製糸場。115年にわたり日本の製糸業を支えていた。

 

アクセス

上信電鉄「上州富岡」駅下車 徒歩15分