江戸から明治、大正、昭和を駆け抜けた渋沢栄一と事業

江戸、明治、大正、昭和と4つの時代を駆け抜けた渋沢栄一。

明治に入って明治維新となり欧州から戻り静岡に「商法会所」を設立、以降会社の設立と運営をした企業500、そして600もの社会事業に携わった。

銀行、鉄道、ホテル、建設、電気、ガス、水道、通信等、学校、病院など、今や私たちの生活には欠かせない現代社会の基礎を築いた「日本資本主義の父」渋沢栄一が提唱した「倫理と利益の両立」の思想は、今日でも多くの経営者が目指すべき形と言える。

 

ここで、渋沢栄一の生涯の略年譜をざっとまとめてみたいと思う。

 

渋沢栄一略年譜

1840(天保11)年 2月 13日、武蔵国榛沢郡血洗島(現埼玉県深谷市血洗島)に生まれる。

1863(文久  3)年 9月 高崎城乗っ取り、横浜外国人居留地の焼き討ちを計画する。

1863(文久   3)年11月   計画を中止し、平岡円史郎の家臣となり渋沢喜作と共に京都へ行く。

1864(元治元)年  2月   一橋家に出仕する。

1867(慶応 3) 年  1月    パリ万国博覧会幕府使節の随員として渡欧(翌年11月帰国)

1868(明治元)年12月   静岡藩勘定組頭を命じられるが辞退する。

1869(明治 2) 年 1月    静岡藩勘定頭支配同組頭格勝手掛り老中手附、商法会所頭取を命ぜられる。

1869(明治  2)年11月   民部省租税正に任ぜられ、民部省改正掛が設置され、掛長となる。

1870(明治 3)年10月   富岡製紙場事務主任を仰せ付けられる。

1871(明治  4)年 8月    大蔵大丞に任ぜられる。

1871(明治  4)年12月    大蔵省紙幣寮紙幣頭を兼任する。

1872(明治 5)年  2月    大蔵省三等出仕を仰せ付けられ、大蔵小輔事務取扱を命ぜられる。

1873(明治 6)年  5月    大蔵省を退官する。

1873(明治 6)年  6月 第一国立銀行総監役に就任する。

1874(明治 7)年  1月     抄紙会社の社務を委任される。

1874(明治 7)年 11月    東京府知事より共有金の取り締まりを嘱託される。

1875(明治8)年 8月 第一国立銀行頭取に互選される。

1875(明治8)年11月 森有礼創立の商法講習所が東京会議所の管理に移るにあたり、委員に選ばれる。

1875(明治8)年12月    東京会議所会頭兼工務科頭取となる。

1876(明治9) 年  5月  東京府より養育院及び瓦斯事務長を申し付けられる。

1878(明治11)年  8月  東京商法会議所会頭ならびに内国商業事務委員長に選ばれる。

1879(明治12)年  8月  東京府養育院院長に任命される。

1880(明治13)年  1月  足尾銅山組合に加盟し、出資者の一人となる。

1882(明治15)年  1月  銀行集会所の委員となる。

1883(明治16)年 3月     大阪紡績会社相談役となる。

1883(明治16)年11月  東京商工会議所会頭に選挙される。

1884(明治17)年  7月  浅野セメント工場成立し、経営を援助する。

1872(明治20)年10月 日本煉瓦製造会社創立にあたり理事となる。

1872(明治20)年11月  帝国ホテル創立にあたり発起人総代となる。

1872(明治20)年12月 東京人造肥料会社創立委員長となる。

1872(明治20)年12月 東京手形交換所委員となる。

1891(明治24)年  7月     東京商業会議所会頭となる。

1893(明治26)年12月 日本郵船㈱取締役となる。

1894(明治27)年 5月     札幌麦酒㈱取締役会長び就任する。

1896(明治29)年 9月  第一国立銀行、㈱第一銀行として新発足し、引き続き頭取となる。

1896(明治29)年12月  内閣より㈱日本勧業銀行設立委員を仰せつけられる。

1897(明治30)年 3月  日本女子大学校創立委員に選ばれ、会計監督となる。

1900(明治33)年 5月  男爵を授けられる。

1902(明治35)年 5月  夫人同伴にて欧米視察(同年9月帰国)

1907(明治40)年 2月 帝国劇場㈱創立にあたり、取締役会長となる。

1908(明治41)年10月    中央慈善協会会長に就任する。

1908(明治41)年11月 早稲田大学基金管理委員長となる。

1909(明治42)年 4月 ㈳癌研究会副総裁に就任する。

1909(明治42)年 6月 多くの企業及び諸団体の役職を辞任する。

1909(明治42)年 8月 第2回渡米(渡米実業団団長として同年12月帰国)

1910(明治43)年 5月  ㈶二松議会顧問となる。

1913(大正  2)年10月 日本実業協会会長に就任する。

1914(大正  3)年 5月  中日実業㈱設立を機に中国を視察する。(同年6月帰国)

1915(大正  4)年10月 第3回渡米(パナマ太平洋万国大博覧会視察をかねて翌年1月帰国)

1916(大正  5)年  7月 ㈱第一銀行頭取を退任する。

1916(大正  5)年10月 ㈶理化学研究所創立委員長となる。

1919(大正  8)年12月 ㈶協調会評議員・常議員・理事・副会長に就任する。

1920(大正  9)年 4月 ㈳国際聯盟協会会長及び㈶日華学会会長に就任する。

1920(大正  9)年6月 日華実業協会会長となる。

1920(大正  9)年 9月   子爵を授けられる。

1921(大正10)年10月 第4回渡米(ワシントン軍縮会議視察のため翌年1月帰国)

1923(大正12)年 9月    大震災善後会副会長となる。

1924(大正13)年 3月 東京女学館館長及び㈶日仏会館理事長となる。

1925(大正14)年 5月 内閣より日米無線電信㈱設立委員長を仰せ付けられる。

1926(大正15)年 8月 ㈳日本放送協会顧問に就任する。

1927(昭和 2)年  2月 日本国際児童親善会会長となる。

1929(昭和 4)年11月 中央盲人福祉協会会長に就任する。

1931(昭和 6)年  1月 ㈶癩予防協会会頭ならびに理事に就任する。

1931(昭和 6)年  4月 日本女子大学校校長に就任する。

1931(昭和 6)年 11月 11日午前1時50分、永眠する。

 

幕末から昭和まで休むことなく突っ走り、好奇心にあふれ、日本流資本主義を唱えながら世の中が平等で平和になるために信念を貫いて駆け抜けた人生だった。