各地の渋沢栄一像【埼玉深谷血洗島】

2024年には新1万円札になる渋沢栄一翁。生涯に約500もの会社の設立と運営、600の社会事業に携わったといわれており、今や各地に渋沢栄一の銅像がある。

ここで、各地にある渋沢栄一像をご紹介していきたい。

 

【埼玉県深谷市血洗島、中の家】

渋沢栄一は1840(天保11)年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島村の農家に生まれた。畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学ぶ。栄一も家業を手伝う中で、経済・経営のノウハウを身に付けていき、実践から吸収した経済観が、後の人生に於いて大いに役立つことになったのだろう。

栄一は27歳の時、15代将軍となった徳川慶喜の実弟・後の水戸藩主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学するほか欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通ずることができた。

上の像は、血洗島から江戸に向かい、その後パリに旅立つ栄一の若かりし頃の姿を象ったといわれている。

 

中の家は、栄一が暮らした場所。妻千代も、栄一が戻るまで、この地で待っていたという。

中の家

この中の家の敷地内に、栄一の旅立ちの像がある。着物姿の栄一の像はなかなかないものだが、ここでは唯一、若かりし栄一がいる。

 

血洗島-。

現在もこの地名は残っている。

この血洗島というのは、非常に物騒な名前でもあり、血生臭い名前であり、怖い名前でもあるので、何故このようなちめいがついたのかその地名の由来を調べてみた。

その由来には諸説があり、定説はないようだ。しかし、諸説の中で、地元で妥当と考えられている説は、この地は、利根川の洪水が多く、地が洗われたという意味で「地洗(ちあらい)」、また地が荒れるという意味で「地荒(ちあら)」と呼ばれたのが、いつの間にか「地」が「血」となり、「血洗島」となったという説のようだ。

『日本歴史地名大系』には、「後三年の役の頃、源義家が利根川の戦いで片腕を切落され、当地でその血を洗い流したという伝説がある。」とだけ書いてあるようだ。

幕末に、江戸へ旅立ち、その後フランスへ向かう栄一。銅像の笑みも、先の世界をみているようだ。

 

城山三郎の「雄気堂々」に「血洗島は、江戸から20里、中山道深谷宿からさらに北へ2里ほど入ったところにある。」と書いてあるように、血洗島は、JR高崎線深谷駅のほぼ真北の方向で6、5キロあり、歩いていくと1時間以上かかる。
そのため、渋沢栄一ゆかりの地をめぐるには、車を利用するのが好ましい。

深谷駅からでているコミュニティバスの北部シャトル便かタクシーを利用するかマイカーで行くかのいずれかで是非訪れて欲しい。

 

中の家

住所:埼玉県深谷市血洗島247-1

営業時間:開館時間 9時~17時

休館日:年末年始(12月29日~1月3日)